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Collaboration work

Title: sure

Installation art/video: Iyo Hasegawa

Performance/video edit: Ikumi Togawa

 

You can see long version from this link.

en https://vimeo.com/503875771

jp https://vimeo.com/501520749

 

 

 

 

 

「はかる」ことは、ものの量を認識することであり、このために数を数え、量を比較し、その割合を求めることである。

ものの量を知るためには、その量を比較するための基準なり目安が必要である。

 

タイルの目地合わせに使用されるタイルレベリングクリップは、タイルの間隔をはかることなくスムーズに正しい位置に貼ることができるとしている。物と物の空間によって定められる距離は正確なのだろうか。私はタイル合わせをしながら実際に物差しで距離を確かめてしまった。

「悔しいけれど、合っている」

正しいと定義されたことを自分の目で確かめ、それでも疑うとき、私たちは絶対に歪まない基準に頼る。

 

本来ならばタイルを壁に貼り終えた後はタイルレベリングクリップは取り外されてしまう。

そのタイルレベリングクリップと目地の部分に収まる物差しは、白い四角い空間を浮かび上がらせる。

ここにあるものは本来消え去るものだが、私たちの確かめる行為を形として残した結果である。

 

この作品はパリのアーティストレジデンスで制作した。

コロナウイルスの影響で一人で部屋にいる時間が多くなった。

これは作品を公開することができず、誰かに評価されること、誰かに見てもらうことすら叶わない状況で制作を続けるということを意味した。このアーティストにとって困難な状況で、自分だけのための空間を作ることとした。

 

それは本来消え去る「確かめる行為」と、誰にも見られずに消え去る「パリでの制作の記憶」の2つが自分の中で重なっていた。

まるで「はかる」ということが「私を私と確かめる」ようである。

 

※タイルレベリングクリップ:タイルを水平垂直に貼るために使用する道

ー長谷川依与

 

 

 

空間に「はかられる」からだ

 私たちにとって「はかる」とは日常的な行為の一つであり、生きていく上で欠かせない感覚である。それは身体的な経験によって無意識的にできるように訓練されてきた能力だ。ものや人との距離を正確に はかることでひとつひとつの行為が適切に行われ、「私」という存在が安全な状態に保たれている。この 時の基準はいつも「私のからだ」であり、それ以外の何者でもない。一方で、私たちは道具を使って「は かる」ことを覚える。そこには私たちの身体的な経験が存在する余地はなく、機械的な基準によって定 められた距離だけが存在する。今回の⻑谷川依与の作品のように。 彼女の作品空間は、私に、身体的な基準で空間を「はかる」ことを制御する。普段のように「壁まで一 歩」「窓までなら手が届く」といった判断ができなくなり、私はタイルレベリングクリップと物差しに囲 まれた小さな白い四角い空間に、体の部分(爪先や指先)を当てはめてどうにかそこにいるしかない。 そこで初めて、私は「私のからだ」という基準自体を「はかる」ことを空間から求められていることに 気づく。メルロー=ポンティが彼の著書『知覚の現象学』で、知覚する「主体」は同時に知覚される「対象」でもあると述べているように、「私のからだ」は、周りのものに常に「はかられて」いるということ を知るのである。感覚的な曖昧さの消失と絶対的基準の尊重。それは少し怖い体験である。 また、彼女の作品空間は彼女の「行為」に埋め尽くされている。逆に言えば「行為」のみがあって本来 の成果(タイル壁の完成)のない空間である。私の今回のパフォーマンスはこの「成果のない行為」と いうものを目指してみようと思う。私はこの空間とゲームをするように、「はかられる」体で空間を「はかる」。空間とからだがどのように相互作用し変容するのかしないのか、楽しみである。

ー渡川いくみ(2020年12月4日)

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